西国柳生新影流兵法 沿革



上泉伊勢守秀綱が天文年間、「鹿島」に於いて、 愛州移香斎の「影流」、並びに松本備前守の「鹿 島神流」を学び、自ら会得した兵法を加え創意工夫を重ね、人間の煩悩を断ち切る「日輪摩利支尊 天」の振るう仏刀を奥源となし、不殺修身の活人剣を持って奥義としたものであります。後に、影流 に新の一字を加えて「新影流」を称します。

この新影流を、柳生但馬守宗厳(石舟斎)が継承して、柳生新陰流が誕生します。
柳生新陰流は、宗厳の五男・宗矩が徳川将軍家の兵法指南役として江戸に招かれた流れと宗厳の 孫・兵庫助利厳が 尾張徳川家に兵法指南役として招かれた流れの、二つに分かれることになり、 それぞれ江戸柳生、尾張柳生として発展していきました。

又、柳生家が徳川家の指南役となった頃から、柳生但馬守宗厳(石舟斎)の高弟達は全国各地に指南役として招かれていたようです。そのうちの一人、大野松右衛門家信は「柳生」の姓を拝受さ れ、柳生松右衛門家信として長州の毛利萩藩に兵法指南役として招致され、ここに西国における 柳生新影流の道が開かれました。その際、同門の有地内蔵允元勝を帯同したと伝えられています。

その後、1671年に萩より有地四郎右衛門就信が、福岡藩に剣術指南役として招致され、 後、福岡藩では有地家と三宅家が代々脈々と幕末まで家伝として新影流を伝えておりました。

明治維新以後、剣術をはじめとする武道は苦難の時代を迎えますが、柳生松右衛門家信より「西国の地にありても柳生の心を忘れずに」、と言う精神の基に受け継がれてきた新影流は、 昭和になり三宅三右衛門継信氏の元に入門し修行を積んだ蒲池源三郎鎮浪氏により継承され、今日も福岡の地でその系統を絶やすことなく伝えられております。

尚、当錬心館は平成17年11月13日に、従来「柳生新影流兵法」としていた名称を「西国 柳生新影流兵法」としました。これは、福岡藩のみならず、日本の西国の地で柳生松右衛門より 脈々と受け継がれて来た、柳生新影流兵法に敬意を表した上で、その鍛えし業を違えることなく伝 承する為に、強い意志と信念で本来の姿に戻したものです。

守るべきものは、本来の柳生新影流兵法です。

当流派には、居合剣法・組太刀・杖術・体術・鉄扇・小太刀等の業が有り
これを総じて「西国 柳生新影流兵法」と称します。


平成18年3月1日


館長室 第八章(沿革変更の趣旨)


西国 柳生新影流の系統図



【西国の地で柳生新影流を伝えた主な先人】



・柳生(大野)松右衛門家信
                     
    最終更新日 平成24年5月1日

一般的には柳生宗厳の高弟であったと伝えられています。しかし、福岡の有地家に伝わった新影流の略歴についてまとめた『新陰流正傳系図』『新影流傳来累誌』(熊本県立図書館蔵富永家文書)によると、松右衛門は上泉伊勢守の弟子として師とともに柳生を訪れ、その後柳生に残った人物、と有地家では伝えられていたようです。

松右衛門は後年柳生の姓を名乗ることを許されました。そのことは柳生家歴代の記録をまとめた『玉栄拾遺』の中に「・・松右衛門この後柳生の称号を賜り長州毛利家に勤仕し」として記述されています。

毛利輝元に仕え長州萩に居住し、『萩市史』のなかには、慶長十六年(1611)、萩城で行われた饗宴28名の中に「柳生松右衛門尉」の名を見ることができます。松右衛門から萩に伝わった新影流は、孫の文右衛門から馬木家に伝わりました。
尚、萩藩では馬木家のほかに平岡家や内藤家などが新影流を幕末まで伝えていきました。

『玉栄拾遺』によると、孫の文右衛門は十五歳のときにいちど長州を離れ、柳生宗冬のもとへ剣術修行に行っています。その際に名を「松右衛門ノ松、大野ノ野字ヲトリ、家名ヲ松野文右衛門」と改め修行の後、再び長州に戻ったようです。
また、松右衛門は新影流のほか新当流長太刀の遣い手でもあり、こちらは有地家を経て美和家に伝わっています。福岡藩の記録には長太刀師範として美和家の名前がみることが出来ます。


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・有地内蔵允常掌元勝 
     最終更新 平成24年5月1日
                            

前述の『新陰流正傳系図』『新影流傳来累誌』や『有地家譜』(熊本県立図書館蔵富永家文書)によると、内蔵允元勝は慶長五年(1600)に生まれました。

柳生(大野)松右衛門家信に新影流を教わり、乞われて一時は養子となり大野六郎と名乗りましたが、大阪の陣で二人の兄が戦死したため、有地家に復籍することとなったようです。

寛文五年(1665)、二男である有地四郎右衛門就信に免許を与えており、その巻物は熊本県立図書館に所蔵されています。
これは福岡に伝わった新影流の伝書として確認できるものでは最も古いものであり大変貴重なものです。
元勝は晩年は常掌とも名乗りました。

尚、神奈川県小田原市立図書館には「有地七郎兵衛兼記」という人物が元文五年(1740)に弟子に伝授した新影流の巻物が保存されています。この人物がどのような系譜で小田原藩に在籍していたかは確認できていませんが、柳生松右衛門から有地内蔵允元勝と伝えられた新影流を伝えた人物のひとりと思われます。

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・有地四郎右衛門就信
  最終更新 平成24年5月1日
                           
有地内蔵允元勝の次男として、寛永三年(1626)に萩城下で生まれました。寛文五年(1665)に父内蔵允元勝より印可をうけた巻物が残っています。

四郎右衛門はその六年後の寛文十一年(1671)に福岡藩三代藩主黒田光之に剣術師範として、知行二百石の馬廻組として招かれました。福岡藩に伝わった新影流はこの四郎右衛門就信にはじまります。

有地家は以後代々「小烏馬場」(今の天神2丁目あたり)に居を構え、1800年ごろの古地図でもそのことは確認できます。

『黒田家譜』には、寛文十二年(1672)に有地四郎右衛門が剣術を披露したことが記されており、また『新影流傳来累誌』によると、黒田光之の四男であり、支藩の直方藩主である黒田長清の剣術の師を勤めたようです

前述したとおり、四郎右衛門就信は新影流のほか、柳生松右衛門から父内蔵允元勝に伝わった新当流長刀も福岡藩に伝えています。

晩年は剃髪し柳庵と号し、貞享五年(1688)に六十二歳で亡くなりました。


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・有地平右衛門元貞 【新規】

    【新規】平成24年5月1日


残された巻物などから、平右衛門元貞はこれまで、有地四郎右衛門就信の後を継いだ人物と考えられていました。しかし『有地家譜』『新陰流正傳系図』『新影流傳来累誌』により、有地内蔵允元勝の三男であり、兄の四郎右衛門就信が亡くなった際に、その嫡子である五郎右衛門氏盛が若年だったために、福岡の有地家の新影流を守る後見役として、萩の有地家から迎えられた人物であったことがわかりました。

兄の四郎右衛門就信が亡くなる貞享五年(1688)の前後から福岡の地に来たものと思われます。
元貞は、甥にあたる氏盛や、後述する三宅源八郎重栄など、残された兄就信の門弟に新影流を指導し、元禄十二年(1699)に六十六歳で亡くなっています。


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・三宅源八郎重栄
最終更新 平成24年5月1日
                               
『新影流傳来累誌』によると、三宅源八郎重栄は、はじめ有地四郎右衛門につき、後に有地平右衛門元貞に新影流の剣を学びました。

三宅家による新影流は、この源八郎重栄から始まっています。有地門下の俊英であったようで、『黒田家譜』や『吉田家傳録』には正徳三年(1713)に、郡平馬の屋敷内において五代藩主黒田宣政の前で剣術を披露した記録が残っています。

また、『黒田家譜』には享保六年(1721)、有地四郎右衛門とともにそれぞれの門弟を率いて六代藩主黒田継高の前で剣術を披露した記録があり、続く享保十四年(1729)には有地五郎右衛門とともに剣術を披露した記録も残っています。同年には藩から知行として百五拾石を与えられたようです。

福岡藩で有地家とともに新影流を伝えた三宅家は、「新大工町」(今の唐人町・黒門あたり)や「追廻し新屋敷(今の六本松護国神社あたり)」に居を構えていました。


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・三宅三右衛門尉栄範     
 最終更新 H18/6/15
                          
『黒田家譜』には元文元年(1736)、黒田継高に剣術を披露した面々の中に「三宅大九郎父源八ハ病 有て出ず」の記述を見ることができます。 この三宅大九郎が三右衛門栄範と思われます。
この際は有地五郎右衛門も門弟とともに剣術を披露しています。

以後、三右衛門の名は『黒田家譜』の剣術披露の記録にしばしば登場し、延享四年(1747)には有地 九郎左衛門と、宝暦十三年(1763)と安永二年(1773)には有地兵太夫とともに剣術を披露しています。 栄範は安永三年(1774)に亡くなったようです。

九州大学附属図書館記録資料館の「三奈木黒田家文書」には、三右衛門栄範が明和三年(1766)に 黒田源左衛門へ伝授した巻物が保管されています。
尚、『黒田家譜』には安永九年(1780)、七代藩主黒田治之の前で有地兵太夫と「三宅三兵衛」が門弟 を引き連れ剣術を披露した記録がありますが、この「三兵衛」が誰をさすのかはっきりとしません

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・三宅太三右衛門尉栄貞(旧姓 小金丸)                    
 最終更新 H20/3/17

源六郎栄元の碑文によると、太三右衛門栄貞は三右衛門栄範の死に際し、実子である源六郎栄元が幼少だった為、小金丸家より三宅家へ入り家を継ぎました。
九州大学附属図書館記録資料館が所蔵する「三奈木黒田家文書」には太三右衛門栄貞が藩へ提出 した「家督譲渡願」とそれに対する藩からの通知文書が残っており、それによると三宅家へ入った安永三年(1774)当時二十八歳だったようです。

また、『黒田家譜』によると、「三宅太三右衛門」が天明八年(1788)に当時江戸にいた幼少の九代藩主黒田斉隆のもとへ国元より派遣され剣術の師となっています。
前述の「家督譲渡願」によると、寛政六年(1794)に病気による体調の不良を理由に、三十四歳になっていた源六郎栄元に家督を譲渡しました。
但し、藩からは藩主の剣術指南を勤めた功績などを認められ、剣術家業として別家をたてることを許され七人扶持を賜ったようです。
これ以降のさまざまな記録には、新影流の剣術師範として二人の三宅姓が同時期に顔を出すこととなります

また栄貞は、続く文化四年(1807)、江戸で十代藩主黒田斉清の剣術の師となり、文化八年(1811)に藩 主黒田斉清が初めて福岡へ入国した際、ともに帰福しています。
尚、福岡県立図書館が所蔵する「安見文書」のなかには、栄貞が文化八年(1811)、門人の安見重八に伝授した免許状の巻物が数本保存されています。近年刊行された『安見家三代記』で免許状を伝授 された当日の安見重八の記録を見ると、麻の上下(かみしも)を着用して伝授に臨んだことが記されて います。
栄貞は文化十年(1813)に六十七歳で亡くなりました。

 
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・三宅源六郎栄元                                  

 最終更新 H20/3/17

天明八年(1788)、太三右衛門栄貞が江戸で黒田藩第九代藩主黒田斉隆公に剣術を教えた一月後福岡を訪れた支藩の秋月藩第八代藩主長舒公の御前で有地兵太夫と共に、剣術を披露した記録が 『黒田家譜』にあります
前術のとおり三右衛門栄範の実子であり、義理の父である太三右衛門栄貞とは年齢の差は十五歳ほどだったようです。

寛政六年(1794)九月に三十四歳のときに家督を譲られ三宅家を継いでいます。
自他ともに認める剣術家だったようで、中央区今川の大通寺に碑があり、当時の福岡を代表する文化人である二川相近(ふたかわすけちか)の手による碑文には「其の撃剣の術を試るに至っては即ち謂う天下に敵無くして已む可しと。亦君自ら許す所なり。」と記されていました。(原文は漢文:碑については現在その存在が確認ができません。)相近の残した文章には剣術の師である三宅源六郎についての記述が見られます。

また、福岡市総合図書館には、栄元が享和二年(1802)、門人の衣斐三太夫に伝授した免許状の巻物数本が保存されています。栄元は文化十三年(1816)に五十六歳で亡くなりました。前述の安見重八は栄元の弟子ではありませんが、安見家の同年の記録には「三宅源六初七日に付、大通寺へ参寺致」との記述があります。
なお、1800年ごろの古地図の新大工町には「三宅源六」の名を確認することができます。

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・三宅太三右衛門(太左衛門)栄堅                         

最終更新 H20/3/17

錬心館には、栄賢の手による文政二年(1819)の免許状の巻物の複写が残っています。
文化十年(1813)に亡くなった太三右衛門栄貞の跡を継ぎました。前述の安見重八の文化十一年 (1814)の記録には、「太左衛門今日御用召にて、剣術師範被仰付候事」という記述をみることができ、 さらに天保元年(1830)には藩より知行百石を賜っています。
栄堅は天保六年(1835)に亡くなりました。

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・三宅源八郎栄茂 (旧姓 大賀) 
最終更新 H21/12/3
                        
文化十三年(1816)、源六郎栄元の後を継ぎました。栄元の実子ではなく栄元の死に際して剣術家業 を継ぐ腕を持った者として大賀家から三宅家に入り、源八郎栄茂を名乗ったようです。

栄茂は剣術の他、前述の二川相近の弟子として和歌や音楽も巧みな文化人だったようです。
箏(こと)を演奏した記録があるほか、栄茂の詠んだ和歌も残っています。
福岡市博物館には栄茂が文政三年(1820)に門人の永田権一郎に伝授した巻物が保存されています

また、前述の安見重八の文政五年(1822)記録には、「信国吉包刀求る、代銭弐百七十目、(省略)、 三宅源八所持の刀也」という興味深い一文が見られます。当時の剣術を修めた武士のあいだではこ のような刀の譲り合いが日常的だったのかもしれません。
なお、理由は定かではありませんが、栄茂は文政の終わりからから天保のはじめごろ(1830年ごろ)に 知行を失い改易されてしまいます。

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・有地平太夫(兵太夫) 
   終更新 H18/7/31
                               
 詳しいことはわかりませんが文政から天保、弘化年間(1820〜40年代)にかけて活躍した人物のよう です。
西尾藩の剣術師範である田代辰益という人物が弘化五年(1848)に全国の他流試合を行う剣術家をまとめた『諸国剣家姓名録』という古文書には、「福岡藩 新陰流有地平太夫」の名が記されています。

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・三宅源六郎元茂 (旧姓 近藤)
最終更新 H21/12/3
                        
源六郎栄元同様にすぐれた武道家だったようで、前述の大通寺に墓碑が現存しています。
その碑文によると、十八歳で源八郎栄茂に請われて近藤家から養子として三宅家に入り、厳しい修行の末、三十歳前に新影流の奥義を極めたとあります。

天保十年(1839)にふたたび藩に五人扶持として召し抱えられ、文久三年(1863)、後に福岡藩最後の藩主となる黒田長知の剣術の師になるとともに、元治元年(1864)には百石を与えられました。 
明治六年(1873)に六十一歳で亡くなっています。

尚、福岡市総合図書館には、元茂が天保十四年(1843)、門人の衣非安平に出した「新影流目録相伝の件」の書簡が残っているほか、福岡市博物館にも慶応元年(1865)、門人の永田氏に与えた印可状 が残っています。
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・有地内蔵允元輝                                   

最終更新 H18/7/31

『剣道五百年史』によると、内蔵允元輝は福岡藩では当時まだ主流ではなかった防具をつけての他流試合に対応した剣術を修行するために、柳川藩大石神影流の大石進の門に入り腕を磨いたとあります。
彼が帰藩の後、藩内の各流派でも次第に防具を使用した他流試合を行うようになったようです。
藩主にその技を賞され、明治二年(1869)藩が文武館を設立した際には師範となったようです。
明治十八年(1885)に亡くなっています。
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・三宅太三右衛門(太左衛門)栄権                        
最終更新 H20/3/17

太三右衛門栄堅の後を継いだ剣術家です。福岡市博物館には彼が文久三年(1863)に門人の廣羽敏に免許状を出した際の添状や、元治元年(1864)に門人の加藤庸之丞に伝授した免許状の巻物数 本が保存されています。
時期的にみて、この太三右衛門栄権が源六郎元茂や有地内蔵丞元輝とともに、明治維新を迎えたようです。
尚、前述の安見重八の記録をみると、息子の猪之吉が天保七年(1836)、「三宅三兵衛」のもとに入門をしているようです。この「三宅三兵衛」が太三右衛門栄権なのかははっきりとしません。

また、明治四年(1871)に黒田家にかわり福岡藩知事に就任した有栖川宮熾仁親王の日記によると、就任間もない8月27日に新影流の剣術をみたことが記されています。
この際演武を披露したのが誰なのかは残念ながら記録されていませんが、福岡藩の師範であった三宅、有地家による演武であったと思われます。

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・三宅三右衛門継信


太三右衛門(太左衛門)栄堅の流れを汲んでいた方で、刀を日常的に取り扱うことの無くなった現代において、新影流の技を習得する為の基本の業(居合術)を創りました。

この当時に太宰府天満宮に蒲池源三郎鎮浪他の門人と奉納演武をした写真も残っておりました。
錬心館では三宅三右衛門継信公を「西国柳生新影流兵法の中興の祖」と考え、入門者はまずこの基本業(居合術)を習得することから始めます。昭和十七年に四十三歳の若さで亡くなりました。

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・蒲池源三郎鎮浪
(大正2年〜平成11年)
最終更新 令和5年11月19日

戦国期、柳川地方を治めていた蒲池家の末裔である氏は、七歳の時から父蒲池源三郎宗也より 剣術の指導を受け、伯父の蒲池鎮義氏(良移心当流柔術の名人と称される中村半助の養嗣子となり中村源太郎鎮義となる)より居合術と柔術の指導を受けました。

大正十三年には柔術の指導を受けるために、大川町若津警察署の道場にも通い、更に昭和三年には講道館本部に入門し、三船久蔵氏等の指導を受け講道館五段となりました。

昭和九年頃より本格的に三宅三右衛門継信氏の指導を受け、昭和十七年に柳生新影流を継承された後、昭和二十七年には柳心館(後の柳心会)を復活させ多くの門弟を育てております。
又、先代より受け継いだ基本の業を、昭和五十年頃にはより実戦的に対応した業として進化させております。
このように平成九年に享年八十六才で亡くなるまで古武道の伝承に努められました。 
錬心館では蒲池源三郎鎮浪先生の進化させた業を基本の二本目として学んでおります。 

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・西田次芳(昭和3年〜昭和58年)

昭和三年七月十日熊本にて生を受ける。
宇土中学時代、居合をされていた恩師より木剣にて基礎を習う。
海軍兵学校在学中に終戦となる、戦後大蔵事務官として八代税務署に勤務する。

その後、事業家となり福岡の地にて蒲池源三郎鎮浪師率いる柳心会に入門し免許皆伝を拝受した後に、師の認可を受け昭和五十六年十月十六日「錬心館」を創設し初代館長となり門人の指導に当たる。 
昭和五十八年に享年五十四才で死去する。


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参考資料


『史料 柳生新陰流』 『柳生新影流居合剣法(パンフレット:昭和40年代後半発行)』 『福岡懸碑誌』 『黒田三藩分限帳』 『福岡藩分限帳集成』 『福岡県史』 『新訂黒田家譜』『日本教育史資料』 『二川相近風韻』 『福岡地方史研究』 『福岡県史料叢書』 『近世福岡博多史料』 『古地図の中の福岡・博多』 『萩市史』 『萩藩分限帳』『福岡町名散歩』 『増補大改訂 武道流派大事典』 『全国諸藩剣豪人名事典』『国史大事典』 『大日本武鑑』 『吉田家傳録』『加藤田日記』『剣士松崎浪四郎傳』 『福岡市博物館収蔵資料各種』 『九州大学附属図書館記録資料館 三奈木黒田家文書』 「天保−弘化期における諸藩の剣術流派 『弘化5年2月諸国剣家姓名録』の検討(榎本鐘司)」 『剣道五百年史(復刻新版)』 『熾仁親王日記1』ほか福岡藩無足組 安見家三代記』

  参考文献追加
『新陰流正傳系図』『新影流傳来累誌』『有地家譜』(熊本県立図書館蔵富永家文書)



※三宅栄元、栄茂と二川相近の関係、有栖川宮熾仁親王の日記については、石瀧豊美先生より貴重なご助言をいただきましたことに、心よりお礼申し上げます。
※今回の調査は、門人の一人の多大なる尽力のお陰であり、今後の当館の発展の為、掛け替えのない資料になった事を、深く感謝いたしております。  



※さらに新資料などにより、調査がすすみ次第、このページの記述を更新していこうと思います。
今回の追加も門人の多大なる努力のお陰です。感謝!

最終更新 平成24年5月1日
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西国柳生新影流 錬心館のマスコットの剣太です