西国 柳生新影流兵法 系統図


これまでは、先代からの口伝を元に古文書で裏付け出来た事柄のみを掲載しておりました
今回、その後の調査で新しい資料が見つかりましたので、追加掲載しております。

【西国の地で柳生新影流を伝えた主な先人達の系統図です】


上泉伊勢守秀綱
柳生但馬守宗巌(石舟斎)

柳生松右衛門家信
(旧:大野)
柳生但馬守宗矩
柳生新次郎巌勝
大野松右衛門は上泉伊勢守の弟子として柳生を訪れる。その後、柳生に残った人物と有地家では伝えられているようです。同門の俊英有地内蔵允常掌元勝を帯同して西下し、兵法指南役として長州藩に赴き「西国柳生新影流」の道を開く 
徳川藩の指南役になり
江戸柳生の流れとなる
尾張藩の指南役になり
尾張柳生の流れとなる
有地内蔵允常掌元勝
1600〜1670?
一時期柳生松右衛門の養子になるも、有地家に復籍する
  錬心館は
この枠の流れです
有地四郎右衛門就信
1626〜1688
元勝の次男
新当流の長太刀も会得する
※昔の方は名前を、事ある毎に改名をされており、
時代によって違う名前で記載されている事があります。
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有地平右衛門元貞
1633〜1699
勝の三男で甥である有地五郎右衛門氏盛が若年の為、後見人として萩より来て指導する



















有地五郎右衛門氏盛
1675〜1740?

就信の長男
美和弥兵衛門重勝

福岡藩 新当流長太刀
三宅源八郎重栄
?〜1736?
初め就信につき、後に元貞に剣を学び、ここから三宅姓が始まる
有地四郎右衛門氏勝(元西)
1701〜1746
氏盛の長男
美和佐兵衛門伊勝
三宅三右衛門尉栄範
?〜1774
明和三年(1766年)に黒田源左衛門へ伝授する
有地平太夫元直
1744〜1788
氏勝の三男
美和忠右衛門伊喜
三宅太三右衛門尉栄貞
(旧姓:小金丸)
1746〜1813
三宅三右衛門尉栄範の死後、子である三宅源六郎栄元が幼少の為、養子となり三宅家を継ぐ
有地四郎右衛門元渡
1766〜1813
元直の長男
有地四郎左衛門
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三宅家の武道継承家が二手に分かれる |
三宅太三右衛門尉栄貞
(旧姓:小金丸)
1746〜1813
家督を三宅源六郎栄元に譲った後に、武道家としての功労があったと認められ別家を建てる。
三宅源六郎栄元
1761〜1816
撃剣の術は天下に敵なしと称される
(栄範の実子

有地平太夫(平太夫
有地兵太夫氏綏
1791〜?
元渡の五男

三宅太三右衛門栄堅
?〜1835
1830年頃(文政13年)に知行100石
三宅源八郎栄茂
(旧姓:大賀)
和歌や音楽をも好む文化人であった
有地内蔵允元輝
?〜1885
氏綏の長男
1885年
(明治18年)他界





三宅三右衛門栄権

1864年(元治元年)門人加藤氏に免許皆伝を与える
三宅源六郎元茂
(旧姓:近藤)
1873年
(明治6年)他界
上記三名が明治を迎えたと思われる
三宅清右衛門源治

明治に入ると資料が無く口伝である


江戸時代は、藩の指南役として書物に記載が残っているのですが、明治以降は時代の変化に伴い武道家にとっては厳しい時代になり、資料がほとんど残っていない為、口伝をそのまま記載をしています。




三宅清右衛門源

明治に入ると資料が無く口伝である
三宅三右衛門継信

現代人に刀の取り扱いの基礎を学ばせる為に、基本の業(居合術)を考案する1942年(昭和17年)他界
三宅三右衛門継信   右:蒲池源三郎鎮浪鎮浪
 左:初代館長 西田次芳
 
蒲池源三郎鎮浪.

福岡の地で継承し、基本の業の二本目を制定する。多くの門人を育てる1997年(平成9年)他界
錬心館 初代館長
 西田次芳 

蒲池源三郎鎮浪率いる「柳心会」に入門。その後、師の許可を得て「福岡藩伝 柳生新影流 錬心館」として独立する。翌年に免許皆伝を取得した
錬心館 二代目館長
 西田浩三

西国に伝わる柳生新影流として初心に戻るべく「西国柳生新影流 錬心館」と改名する
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新たに熊本県立図書館蔵「富永家文書」を錬心館門人が調査をし追加記載をしています
 

参考資料
 
※さらに新資料などにより、調査がすすみ次第
    このページの記述を更新していこうと思います。

最終更新 平成24年5月1日


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